昭和44年11月1日 月例祭
【入力者: 末永 満】
神様がこのように御出現になりました、その一番有り難いということは、教祖様ご自身が天地の親神様のおかげを受けられて、そしてそのおかげを私共にお取次ぎを、まぁ、下さるわけですが。そのおかげの内容というのが、教祖様ご自身がそれを実感しておられますように、どうしてこのようなことが起きて来たであろうかと。どうしてこのようなおかげを受けられるようになったであろうかと。それを思うなると、もう嬉しいやら悲しいやらと、実感しておられます、ね。どうしてこのようなことが起きて来たであろうかと、どうしてこのようなおかげが受けられることになってきたであろうかと。そういう私はおかげを受けさせて頂くということがです、私は金光大神この世に御出現の一番の天地の親神様の願いではなかろうかとこう思うのです、ね。
ですから、おかげを頂いて商売のお繰り合わせを頂いた。医者にも身はなした、病人がおかげで助かったというような例えば、奇跡的な御利益というものならば、もうあらゆる宗旨宗派での信心によって皆さん受けておられます、ね。けれども、どうしてこのようなことが起きて来たであろうかと。どうしてこのようなおかげになってきたであろうかと自分で自分ながら分からないほどしの有り難さ。それを嬉しいやら悲しいやらというほどしに表現しておられますね。
私、今晩の御祈念を十一月一日の祈願のことをまず思わさせて頂きましたら、大きな釣鐘をですね。もうそれこそ気違いのようになってこう、この、何ていうでしょうかね、そのこうたたいたり、(?)(?)たまらんというてその釣鐘にしがみ付いておる人の姿を頂いたんですけれども。どういうことだろうかと。そして、只今私が申しましたようなほんとに嬉しいやら悲しいやら、どうしてこのようなことが起ききて来たであろうかといようなおかげを頂くためにはこのような信心ではいけないということを感じたのです。
まぁ、ここに釣鐘あるなら、その釣鐘を神様といたしますならね、いかに神様じゃからち(?)それをしがみついて、こうお社を(ごうぐり)ようにしたからというて、そういう成る程それはその時あまり(?)あまり熱心にいうから、その苦い、例えば、そのことの願いは(?)出て下さるようなことになるかもしりません。(いっしょうだっていっしん)。拝んだり、修行したらすらならですね。けれどもそのどうしてこのようなおかげが受けられるであろうかというようなおかげは、にはなってこないと思うんです。
(どろいつ)の文句の中にございます、ね。「鐘がなるのか撞木なるか。鐘と撞木間がなる」と、ね。ここに鐘があるからというてなるのじゃない。ね、撞木があるから撞木がそれに当ったからなるというものでもない。もう実を言うたら、鐘だけでもいけない撞木だけでもいけない。鐘と撞木のその間から生まれてくる音色がもうそれこそ、(?)を残して私共の心に響いてくるような鐘の音色が聞き取れれるようにです、かみ、天地の親神様のおかげというのは、ね、そういう働き合いというものになってこなければ、おかげにならないと思うのです、ね。神様だけでもどうにもおなりになるわけじゃない。人間氏子がいかにがんばったからというてできるものじゃない、ね。
いわゆる、氏子と神様とが一つんになるというか、ね。その中から、あの鐘色がなられてくるように、おかげが受けられる、ね。どうしてこのような素晴らしい音色が生まれてくるようになったであろうかと。自分の心の中に感じられるようなおかげというのは、そういう働き合いから生まれてくるのだということ。
先程、(まさあき先生)が銀行勤めておりました時にも今度大厄を果たさせて頂きました。お荷物をあちらに運ばせて頂くおかげを頂きました。あちらへ参りましての実感を皆さんに聞いて頂いておりましたですね。ほんとにその思うてみりゃなんでもないことなんだけれども。しかし、又よく思うてみると、どうしてこのようなことになってきたであろうかと、(まさあき先生)自身が実感しております、ね。
私なんかご本部参拝をさせて頂きますと、私を先頭に、まぁ例えて申しますとこう、(けいない)あちらこちらを見物して回りましたい。金光様のお宅を、ごも、御門前から拝ませて頂いておった私達がです、まぁ、これからは金光様のお宅にご挨拶にも上がれるような間柄にならせて頂けれる。今度の式が終わりましたら、私共夫婦、それから新郎新婦、それにあちらのお母さんと。五名で金光様のお宅にそのお礼に参乗させて頂くことになっておるそうでございます、ね。それを聞かせて頂いた時に、(まさあき先生)の心の中に、どうしてこのようなことになってきただろうかと、実感しております、ね。今までは、ただ御門前から拝ませて頂きよったものが、ね、中には入れれるようになるという。金光様にご挨拶が、でき、できられるというようになるということ。どんなに考えても、考えても、これは人間の知恵や力ではどうにもできない。それこそ、鐘と撞木の間から生まれてくる音色でなくてなんであろうかと私は思うのです、ね。
まぁ、そこでね、そこでそういう私共がおかげを願っての信心ということになってくるわけでございます。まぁ、そういう考えを(?)お広前に参拝させてもらい、そして奥城に出させて頂いて、三人で一心不乱に教祖の奥城で御祈念をさせて頂いておったら、(まさあき先生)の信心に響いてくるものは、ね、「信心とは信心なり」と頂いたと言うております。もうなんて素晴らしい言葉であろうかと思います。「信心とは信心なり」、と。ね、確かに信心とは信心なり。信心とはおかげを頂くことだ。信心とは奇跡を現すことだ。信心とは神様から人間側おかげをもらうことだというようなことではなくて、信心とは信心なりであります、ね。
そこで私共が、なら真心の限りというても、その都度その人の信心程度によって違いますから、まず信心を現していく。真心を現していくことを教えられるのでございます。そこからおかげが受けられる、ね。そこから、成る程、神様の働きを信ずることができるように段々なってくる、信心なんだ。信ずる心である、ね。段々と自分の心の中に、和賀心が神に向こうていく。今朝からの御理解のように、ね、信心が十年と続いたら、我と和賀心をまつれとこう言うておられます。だから十続いたから我と和賀心をまつれというのじゃない。そいうい信心、ね。そういう真心の、こん、まぁ、それをお道の流儀で申しますなら、実意丁寧神信心を貫かせて頂いての十年なのである、ね。
そこにはです、ね、あらゆる機会に、まぁ、どうしてこのようなおかげになってきたであろうかと。夢にも思わないようなおかげがこうして展開してくるということがです、有り難いと、ね。神様のお働きに合掌しなければおられないと同時にです、そういうおかげを頂けれる頃には自分で自分の心がまつれ、拝まれるように段々なってくるんだということです、ね。だから、信心とは確かに信心なりであります、ね。ですから、そうだと分からせて頂いたらならそこに取り組まなければいけんのです。
最近繰り返し頂いておりますことは、実意丁寧、いわゆる、神信心ということについて頂いておりましたですね。私共の心の中からです、いよいよわがままな心、横着な心をです、ね、取り除かせて頂く精進させて頂くと同時にそれが丁寧。いわゆる、行き届くということ、ね。心配りということ。丁寧とは、ね、心配りのことじゃとこう。
昨日の朝の御祈念の時に私そこのお広前の隅々にですね、俵がいっぱいこう(かぎおもて)につみあげてあるご心眼を頂きました。俵が(かぎのてに)こうつみあげてある。どういうことだろうかと、思わせて頂いたら実意丁寧、その丁寧ということについて頂くのでございます、ね。
お広前真中に、ここ、ここんところにおかげがあるのじゃない。隅々にある、ね。いわゆる、行き届かせて、心配りをさせて頂くということ。心配りとは心配と書いてある、ね。その心配な心がです、神様に向かう、いわゆる、真心の心配りができるところからその心配がなくなる、ね。私共が実意をかいでおる、わがままである、横着である。丁寧というたら、もういよいよ雑なもんである。(?)のものをここに下からそれでいいというのじゃない。(?)のも塩がって、そしてなおかつ、十年(?)ということがある。さー、これでよかろうと、もう一遍検討してみるような心を十二分というわけでしょうが、ね。その、いわば、(とおう)のものが(とおう)なされてからそういう隅々にある。そこの後の、わ、わずかばかりのところがお粗末になりご無礼になり、そこから折角のおかげが漏れておるという感じがいたします、ね。
今日、四時の御祈念を終わらせて頂きまして、それから、今度豊美の、沢山の花を今日頂いておりましたから、それを郵便貯金通帳にいたしましてね、そしてそれを、まぁ、もたせてやろうと。まぁ、親心でそう思いました。それで、私が御結界座った。御結界からそれを渡させてもらおうと思うて、まぁ、(?)。それでそのことを私が申しましたら、豊美がこんなふうに言うんですよ、ね。それはね、確かにあちらに行けば、もうお金には不自由することだけは間違いがない。収入というのはもうほんとにわずかばかりの収入の中から、まぁ、ああいう、せ、その生活をなさっておられるわけでございますから。それはもう合楽の(?)、ね。ですから、どういうように例え、逼迫するようなことがあるかも分からんけれどもです、そのことを承知で私は行くのでございますから、ね。(ねまじか)がお金をもって行ったんじゃ私は金を使うことに非常に弱いから。これはこのまま神様にお供えをさせて頂きたい。それもよりよりご本部で、控え所を一つ尋ねきゃならんといったような話合いがあっとるから。その、まぁ、資金の一文でもあちらに行ときゃもうこんなに有り難いことは私としてはないと。(?)私も一応もらうわけなんです。にゃ、あんたがそげん思うとるぐらいなら、なら折角こうやって通帳ができてきとるけれども、私が預かって、その資金、そのことにお供えをさせて頂こうと。
けれども、まぁ、新婚旅行に出るならお小遣い少しぐらいはならもっていなかにゃいくまいから、なら千円ばっかり下さい。(笑)千円じゃろうもうできまいからと言うて、まぁ、少しは(?)金を渡させて頂いたのでございますけれども、ね。そのことを私が、又、改めて神様にお届けをさせて頂いておりましたら、ね、信心というのはね、お話しを頂いて、はぁ、そうか、成る程だと分かっただけじゃいかん、ね。それを例えば、行ずるというところから信心が分かってくるのである。その行ずるということがです、いうならば、それこそ、(ず)からいかなければいけないということです、ね。
ちょうどそのことを頂いて、御結界下がっておりましたら、最近お参りをしておる善導寺の、むら、村山さんという青年の方が、お参りをさせて頂いた。この頃、兎に角、お参りをさせて頂く。兎に角このお広前着かせて頂いただけで、何となしにお参りをしてよかったと、そのいいものを感じますち言う。だからね村山さん、そういう素晴らしい気持ちが開けてきておるのだから、その心で教えを頂いて、その教えを本気で行じようという(ず)からいく信心をさせてもらわにゃいかんと言うて、今頂いた、その時頂いたばかりのお話しを皆聞いて頂いたわけなんです、ね。
私その時御心眼に頂きますのがですね、あの剣道をいたします時に棒をつけますね。こう(めん)というのがつけます。(こて)をつけます。(どう)をつけます、ね。それに(めん)だけはかぶっておる。(めん)だけはかぶっておる。ところが、(どう)がしてない。手のところにもしてもない、ね。このぐらいで信心をしておるつもりでおる。自分の(めん)のことばかり思うておる。自分の(めんず)のことばかりを思うておる。長年信心しよったのがおかげ頂き切らんならば、お恥かしか。だから、神様おかげを下さいというのは、ちょうど釣鐘をごうぶっておるようなもんじゃないでしょうかね。病人がある。どうぞ助けて下さいと。助けてもらわなきゃ(きんじょのてまえでおるか)。神様のお顔泥をぬる。神様に対して相済まんからおかげを下さい。丸っきり神様をごうぐりようなことを言う。神様が一人、二人(しんだかりで)顔やら汚しなさる神様じゃないちいうこと、ね。神様に顔に泥ぬっちゃい相済まんから、おかげを下さいち言うて、丸っきり神様をごうぐりような、これを私が今日頂く釣鐘をこうやって、こうやってやいららと押しよるじゃないだろうかとこう思うのです、ね。
自分の(めんず)のことばかり。いわゆる、(めん)だけを叩かれたくない。そして他のところはもう、その、全部開いておると、ね。どこから叩かれても、突付かれても、(はらわれても)、どっこいとその、(受けとこのいても)受けられるだけのもののそのおかげが頂けとかなければならんということを、いわゆる、(ず)から信心させてもらわにゃいけんち言う、ね。もう重たいち言うてから手にこう下げとるけん(?)。それをひっくりめいといてから背中に(かろうたら)軽く変わられる。まだどうにこう下げらる
。
教えを頂くでもそうです。教えを頂いて、その教えを(ず)から行じなければ、し、うもみが生れてまいりません。今日私が言う、ね、鐘と撞木の間から生まれてくるようなおかげに増えることはできません、ね。ただ拝んだから、お参りをしたから、お取次ぎを願ったから、そんなことじゃできん、ね。おかげは受けても、信心のそれこそどうしてこのようなことが起きてきたであろうかと、嬉しいやら悲しいやらというような実感に浸らして頂けるほどしのおかげというのは、それでは受けられないて、ね。私はここのところをです、もう少し本気でお互いが行に現わしていかにゃいけん。
最近頂いておりますようにです、例えば、本当にお道の信心が実意丁寧神信心を(もっ)として、ね。これは命のように言われておるのでございますから、なら実意とは、丁寧とは、神信心とはと、実意丁寧神信心を本当に極めていく。これは私自身も初めてあの実意丁寧の丁寧ということが昨日分かった、ね。その分からせて頂いたことが行(ぞい)に現わされていってこそ、初めておかげなんです、ね。実意丁寧のその心をもって神様へ向かうのを信心というである。実意、丁寧、神信心。そこから、成る程信心は信心だなということが分からせて頂くのじゃないかとこう思うのです、ね。
久し振りで、渡辺先生がお礼で(?)来て下さった。(?)月次祭を頂いておられます。ちょうど時間が三、四十分ありましたから、あちらでいろいろお話を聞かせて頂く中に、先生が「ほんとに今度はお嬢様やられることになって、先生寂しかろう」ちいうて、そんな皆さんがそう言うて下さるんです。ところが、わた、私、私いっちょうん寂しいないとですよち。私、どう、どういうことか分からんけれども、ほん、ほんとに寂しくない。けども、明日ようにもう相談になったら悲しゅうなったり、寂しゅうなったりするかもしれない。けども、私がもし、ある、涙をこぼすならおそらく有り難涙だろうと思うのです、ね。
ようにですね、ほんとにそのおしかとか寂しいとかという気が一つもしない、ですよねというて、お話をしたこと。それが先生、やっぱこういうようなことではなかろうかというて話したんです、ね。さっき、今話しました話を渡辺先生にさせて頂いた。豊美がこういうふうに申します。ですから、まぁ、この人の信心が荒削りに間違いはないですけれども、ね、もうこうと決めたらこう。例えば、娘時代に、け、親達の信心について(?)(かわん)とつくらんと。という生き方をやはり、それをやりぬいてきております、ね。
今度もやはり、どういう中に参らして頂きましてもです、ね、いわゆる、(ず)からの、いよいよの時に信心がこの人はできるということを私が信じておるから、どこにあっておっても、どこに行っても、大丈夫だという安心があるから私は寂しくないのじゃいのではなかろうかと思います。いや、むしろ、どっちらかというなら、有り難い方が強いのです、ね。
それこそ、(?)じゃないけれどもね。それこそ倅が役に立ったのではなくて、娘をお役に立たせて頂くのであるから。娘、この時にいなかったらこういうおかげにならなかったんだ。豊美がいなかったら。というような、いわば、娘がお役に立たせて頂くのでございますからとても寂しい点何点ちう考えは私には起こってこないのです。それはなら、娘の信心を信じておるからなのである。いわゆる、信心。それが信心。だから安心、ね。そこからね、いよいよ神様を信ずるという信心が生まれてくる、ね。ために私共が真心、ね、真というものを追求して、それを限りなく追求していく。しかもそれが実意丁寧に現されていく、ね。その、その心で神様へ向こうていくというのが実意丁寧神信心だというふうに私共が分からせて頂いた、ね。分かったならです、だからそれをただ分かっただけではなくて、やはり、いよいよ本気で(ず)からそれに尊んでいかなければ行じられない。
今日、私が御神前で最初に頂きます、釣鐘ごうぐるような、ね。ここでおかげを頂かなければ、ね、信心ない人達で恥ずかしかちのは、顔だけに(めん)被っとるようなもんです。下の方(はらわれたら)もうこしまいおい、ね。金光様の、が、私共が拝んどる神様はです、ね、私共がおかげを落としたとか、ね、死んだらと切ったぐらいなことです。もう俺の顔はどうする、どうしてくれるかと。俺の顔を汚したじゃないかと仰るような小さな神様じゃないということ。
いつでしたか私、御本部参拝の途中にですね、もう久留米ずっと小倉まで御祈念をさせて頂きよった。お粗末御無礼があったか一生懸命させて頂きよったら、丁度八幡、八幡を(とびあわした)時に八幡へそれこそ天が真っ黒なるように、あの煙りで、あのそれが見えないようなところを神様が指差して下さるようにしてですね、ああいうふうに空がこう汚れておるようであっても、あれがどれほど天地の空に響くかと。私が詫びて詫びて詫びぬいておること、そんなことは詫びんでも詫びさせといて、例えば、八幡までは詫びさせておいて神様がそう言うて下さった。もう私の心は(?)。といようにですね、神様はしかたもない。そんなことで神様が顔を汚しなさるような神様ではないということ、ね。
ですからそういうことよりもです、ね、私共が本当に付くところ付かなければいかない。私共の心の中の撞木、ね、撞木を心とするならば、その心で付くところ付かなければ、良い音色が生れてこないということ、ね。そんなら、その付くその撞木の内容というものがです、心の内容というものは、果たして私が意丁寧であるか。その実意丁寧な心で神様へ向こうておるかと。実意丁寧はその心をもって、その神様である釣鐘を付かせていもらうところから生まれくるのがあの音色である、ね。鐘が鳴るか撞木鳴るか。鐘と撞木の間がなるその音色に引き取れさしてもらう、ね。
どうしてこのようなおかげになってきたであろうかと、嬉しいやら悲しいやらというような実感の中に浸らして頂けるようなおかげをです、私は頂けるために教祖生神金光大神はこの世に御出現になったんだと私は思います。ただ病気災難又は、商売繁盛のための神様じゃない、ね。そういうものが願いであり、目指しでなからなければいけないということをお互いがもう一遍ここに思わせてもらい、分からせてもらい。最近頂いておる御理解をです、もうほんとに、まぁいうならば、お道の信心の決定版と、思われるような御理解を頂いておりますのでそれがほんとに、そのみ教えがです、(ず)からいけれるところの信心、修行に取り組ませて頂く。そこからね、聞こうとして聞けるものではない、ね。どこから生まれてくるか分からない、ね。けれども、確かにその音色は鳴られてくる。それは鐘だけのものでもなからなければ撞木だけのものでもない。いわゆる、あいよかけよの働き合いの中から生まれてくるその音色。私共が聞きとらして頂き、ね。それこそ、しみじみと嬉しいやら悲しいやらというような実感の中にです、生活させて頂けるようなおかげを願いとしての信心にならなければならんということを思うのでございます。
どうぞ一つ、私共がですね、ほんとに釣鐘を神様とするなら神様をごうぐるような信心で止まっておるじゃなかろうか、ね。いや、私がというて、その丸っきり自分が一生懸命信心したからおかげを受けたかのように、撞木のが、撞木があるからその音色が鳴られてきたように、ね。鐘があるから鳴るのである、ね。神様がござるから、ね。
小さい子供が、風車をもって走っておる。俺が走っておるけんで、これが回いよるとこう思うとる。人間は(?)そう思うのです。そうじゃんね、ここに根気といものあるから、ね、走ればこれが回るのである、ね。ですから、ここんところを分からせて頂く信心、ここんところが有り難いなぁと思わせて頂く信心。そんなら、走らにゃおられんのであり、付かなければおられんのであり、次のところを極なければおられんのであり、ね。そこんところを一つ極めていかなければいけんと思うのです。どうぞ。